2014年3月26日水曜日

登文医研たより 954  優しい眼差し、

 「登文医研たより」は、親や教師やメンタルフレンドのために書いているものです。
 日常的に社会参加していない人、当事者は読まない方が良い場合が多々あります。なるべく読まないで下さい。

以下の「登文医研たより」は3月26日朝に更新しました。


登文医研たより 954  優しい眼差し、
 登校拒否文化医学研究所 高橋良臣 takahashi@as.email.ne.jp  HPは研究所名か高橋良臣で検索可能  はじめに以下の文章は理解しやすくするために汎用語を用いる。一部差別用語と勘違しないで欲しい。
 不登校や引きこもりの子供達のほとんどは、親や教師たちや世間一般の人々の目を恐れている。特別に、その目が批判的な言葉を音声でしているわけではないが、身近にいる人々の(自分のことを知っている人々の)目つきが、気になっている。
 不登校や引きこもりをしていることに罪悪感があるかもしれない。自分の罪(本当は罪ではない)について、周囲の人々がどのように見ているか、気になると言う。不登校や引きこもりの子供(人々)は犯罪者ではないわけで、罪悪感を抱く必要もないと思うが、自分がしていること(不登校や引きこもりのこと)は悪行であると思い込んでいる。
 彼らのほとんどは、人々の目が恐いという。相手から「批判されているような気がする」、「非難されているような気がする」、「攻撃されているような気がする」、さらに深化すると「みんなから悪口を言われているような気がする」等々と言う。全て「気がする」程度ではあるが、そのような気がするのは、彼らが何らかの罪悪感を持っているからなのだろう。
 不登校や引きこもりの人々は、社会的な環境や関係や状況の中で、自分の現状が反社会的だと勘違いしている。不登校や引きこもりは、反社会とは言えない。非社会的とか脱社会的とは言えても犯罪(悪)ではない。自分の不登校やひきもりについて罪悪感を抱くことは彼らの被害妄想である。彼らの多くには、冷静に現実検討する力が壊れている。
 「すれ違う人が、自分を見ている(ような気がする)」、「みんなが自分ばかりを見ている(ような気がする)」、「人の視線を浴びている(ような気がする)」等々と言う子供もいる。
 人は、いつそんなに他人ばかりを見ているわけではないから、その子供の自意識過剰である。通りすがりの人は、よほどの暇がない限り、他人の顔を気にしながら歩いているわけではない。もし、ある人の顔を特別に見ているとしたら、その人の顔に何らかの強烈な特徴があるか、その人にわざわざ会うために訪ねてきた人であろう。
 仮に人の顔ばかり見て歩いていたら、今時なら交通事故に遭ってしまう可能性が高い。そこまで悲観的に思い込むのは、現実検討できなくなっている子供である。
 人目が気になって仕方がないと言う子供が、私の所に相談に来た時、「それで、私の目は気になるの?」と訊くことにしている。今まで全員が気にならないと言ってくれた。「どうして気にならないの?」と訊ねると、「優しい目だから」と言う子供が多かった。
 そこにあるのが優しい眼差しだと、安心できて本来の目的に取り組めるようになるのだろ。私の目つきは、本当に優しいのだろうか?
 自分に向けられる厳しい目や批判的な目や冷徹な目があると、気になって本来の取り組みが出来なくなる子供が多い。冷静に考えたら、大人も同様だろう。
 私の目つきは決して良くないと自覚している。マンガの「うる星やつら」の錯乱坊と言われている、チェリー坊のいやらしい目つきにソックリだと言われるほどだ。
 それなのに不登校や引きこもりの子供たちは、高橋の目は恐くない、優しい目だと言う。彼らの対人判断には、強い先入観や主観や思い込みが先行していると思われる。
 私は、確かに不登校や引きこもってきた子供たちがやってきたら、歓迎するから厳しい気持はない。むしろ、この子は、今まで大変な苦労をしてきたのだろうなぁと同情する気持とか、辛い思いをしてきたに違いないと労わる気持ちで見る傾向がある。
 同情や労わりは、本来的には優しい気持に通じている。そう言う意味で私の目が、子供たちには「優しい眼差し」に見えるのかもしれない。
 親や教師たちの目は厳しくて恐い目をしていると言う。不登校や引きこもりの子供には、間違いや失敗を見つけて、批判したり非難したり直そうとしたりしているように見えると言う。子供の立場なら、子供の言動の間違いや失敗ばかりに視線を向ける大人の目は、出来れば避けたい目である。元々、親や教師は子供たちよりは年長であるから、年長であると言うだけでも視線はきつく(強く)感じられるだろう。
1・目とその人の気持は連動している。
 その時のその人の眼差しは、その時のその人の気持を反映している。俳優や女優は、科白(せりふ)に従った感情や表情を作っていく事が出来る。それを見て「本当に上手な役者」なら、心の気持の描写や表現(表情)に現実感を抱く事ができる(リアリティがある)。
 日本の精神文化の中で、「目は口ほどにものを言う」と言われてきた。その通りだと私は思っている。言葉では偉そうなことを言っている人でも、目がうろたえている場合もある。口では強がっていても、不安が強い人の場合は、目が左右に揺れている場合もある。気弱な人の視線は、しばしば俯き加減になる。もちろん自信がない人の視線も下向きになる。
 私は、目だけでその人の全て(の気持)が分る等とは思ってもいない。しかし、目は口ほどにモノを言うことは、一部で確かであると思っている。
 心理相談に来られた方と、真正面から目を合わせる時に注意しなければならないのは、こちらの視線が優しさで満たされてなければいけないことである。労わり、同情し、感謝し、慰める気持ちに溢れていなければ、相談に来た人は、瞬時にして視線を逸らせてしまうだろう。こちらが警戒した目を向ければ、相手も警戒した気持になる。こちらの気持は視線に現れる。相手の気持ちも視線に現れる。
 相談に来た人と初めて会う時、相談に来た人は、かなり緊張するはずである。特に初対面の時、彼らは緊張することを知っておかなければならない。彼らが緊張すると言う前提を知らなければ、彼らの目が尖っている意味に気がつかない。最初に相談に来られた人の緊張緩和のための働きかけが、その後の相談に大きな影響を与える。
 問題を抱えて相談に来られる人は、最初から初対面の相談相手に安心感を抱くほど冷静で緩やかで落ち着いているわけではない。我々は、彼らの警戒心を解き、用心深さから解放し、信頼感(信頼関係)を相互に築いて行けるように、対話をすすめなければならない。対話も相手の緊張を緩和し、心が暖かくなる対話でなければならない。
 相談担当者の視線は、相談担当者の気持を相手に伝えてしまうことを十分に理解しておきたい。挨拶をする時の視線は、相手にどんな感情をも起こさせる最初の手段(入り口)となる。目つきがマンガチックな私でさえも、「優しさを感じる」と言われる事が多いのは、私自身が、相談に来た人を心から歓迎している視線が、相手に伝わっているからであろう。
 視覚中枢と感情表現を司る中枢機能は、脳内で隣接している。したがって、その時の感情と視線に現れる表情は、ほぼ一致していることになる。そんな生理学的なことは二の次でも構わないが、視線は感情を良く現すことは事実である。
2・視線を合わせること、視線を逸らすこと。
 視線をずっと向けていると、その向けられた先にその人の関心があることを示す。どのような関心かは、その目つきとか眼差しで表される。
 目つきによって、好意を持った目つき、敵意を含んだ目つき、様子を観察する目つき、何気なく観ている目つき、これから関心を持とうとする目つき、無視している目つき、等々、その人の状態は、どのようであるか、だいたいは分ってくる。
 しばしば、発達障害の子供の目つきは、相手に関心を持たない目つきとなり、親密感を抱かない目つきになる。不登校の子供の場合には、不信感や不安感が滲み出る目つきになる。いじめられた子供がいじめた子供を見るときの目つきは、怯えた目つきか、恨みを持った目つきになるだろう。
 私の実存心理学の恩師(故・早坂泰次郎先生)は「相手の目を見てりゃぁ、相手の気持ちは分る」が口癖であった。それは、早坂先生が「かかわる者の表情の全てを観ていなさいッ!」と言う時に使われた言葉である。早坂先生は、瞬時にして、相手の心にある意識(気持)を見抜く名人だと私は思っている。しばしば、禅寺のお坊さんが、参禅した人の心の乱れを見抜く事があるが、早坂先生の場合の見抜く力は、それ以上である。
 剣道の達人は、あの素早い動きを瞬時にして見抜き、隙を見つけて攻撃の技を繰り出す。相手の目を見て、視線を合わせていなければできない反応である。
 目にはその人の気持を刻々と表す反応が出る。これは、自分自身では気がつかないが、その人を冷静に観察している人には見て取れる。当たり前のことだが、瞬間の自分の目の変化を、本人が見続けることはできない。
 たとえば「高橋君は100m走の時の目は恐いくらいに力が入っている」と言われた事がある。私自身はその時の自分の目がどんな目つきをしているのか全く分らない(見た事がない…自分の目に視線を合わせることはできない)。しかし、夢中になって走っている時には、相当、真剣な目つきで、歯を食いしばって無我夢中になっていることだろうとは予測がつく。そのような時の自分の目つきは、周囲の人から見たら「恐いくらいに力が入っている」ことになるのだろう。私にとっては真剣に無我夢中になっているだけだが…。
 観る人の主観によって、目つきに関する表現も変わってくると思われる。第一、私は私を観ている人と視線を合わせているわけではないから、野生的な競争本能丸出しで短距離を走っているとそのような目になるのだろう。それが恐いくらいに力が入った目つきなのだろう。そのように解釈すれば、なるほどそのように感じる人もいるのかと理解できる。
 同じ動作にしても、観ている人と目を合わせながら走るとなると、観てくれている人が好意的であれば、手でも振りながら、にこやかな視線を向けて走るに違いない。
 長距離走で、競技ではない場合には、そのように手を振ることも可能である。短距離走ではそう言うわけにはいかない。ゴールラインを目指して無我夢中に走るだけである。
 禅寺のお坊さんが、参禅した人の目を観ていなくても、心の乱れを見抜くのは、座禅の組み方や姿勢に、心の乱れが現れるのを見逃さないからだろう。
 対面して禅問答をしている場合には、修行を積んだ僧侶なら、相対する人の心を瞬時に見抜いてしまうだろう。目が見えれば、もっと分りやすいだろう。
 かつて日本の習慣では、あまり相手の目を見て話をする習慣はない。欧米文化が影響を持つようになってから、「相手の目を見て話しなさい」と言われるようになった気がする。
 私は、幼少の頃、相手の目を直視することに恥じらいを感じていた。小学校3年生の時の担任教師が、欧米文化の影響を色濃く受けた人で、「相手の目を見て話しなさい」としつこくせまった。相手にもよったが、相手の目が眩しかったり、自らが恥ずかしかったりしてうろたえた記憶が残っている。そんな時に、私はすぐに視線をそらしたと思う。しばしば、その教師から注意されたことを覚えている。
 獣医学や牧会学や臨床心理学を学び、観ることの重要性を理解して、自ら、積極的に観る習慣を獲得できた。獣医学の対象は飼い主と動物である。どちらの目や表情も観る必要があった。観なければ何も分らないからである。飼い主が、どれほどその動物を大切にしていたか、その動物が、どれほど辛いかは、対象となる人や動物と目を合わせていたら、自ずと見えてくる(分ってくる)。
 牧会学も臨床心理学も対象は人間である。牧会学とはもっと専門的に言えば「牧会心理学」であって、キリスト教会で行われるメンタルケアに相当する内容である。臨床心理学でも牧会心理学と同様に、分るように観る、理解しようとして観ることは大切である。
 目と目を合わせることは、相互に気持を受容し理解し合うことに通じる。目を逸らすことは、相手に対する嫌悪感や回避感情や恐れが潜在していて、自分には相手を理解しきれないとか許容できない言う感情に支配されている場合が多い。
3・動物の目
 犬や猫などのペットの目と、野生動物の目つきは多少違いがある。
 飼い慣らされたペット類の目は、個体差程度の違いはあると言う前提でみても、一般的に穏やかである。しかし、何がしかの特別な事情や緊急事態が生じた場合、体内に潜在していた野生的な目つきが戻ってくる。
 山梨で飼っている猫は3匹とも、それぞれ異なった環境で育ってきた。2匹は道端に捨てられていた猫である。1匹は飼い猫が産んだ仔猫を貰ったものである。話しを分り易くするために、この3匹の猫を譬えにして話しを進める。
 拾われた猫は、飛ぶ鳥(白セキレイ、ツバメ、スズメ、カラスなど)をも捕まえるほど敏捷であり、鳥を見つけると目つきが野生の目つきに変わる。飼い猫の子供は、捨てられていた猫が捕まえてきた鳥を横取りするために、目つきはいつも穏やかである。
 拾われた猫の内、敏捷な方の猫は、毒蛇にも突っかかるし、猿をも追いかけるほどの気の強さ、攻撃的野生を丸出しにする。その時の目つきは、瞬時にして、キリッとなる。人間に媚びることは全くないマイペースな猫である。
 それほどは敏捷ではないもう一匹の猫は、池の魚を狙ったり、捕りやすいネズミなどを捕まえたりしてくる。その時の目つきは、それほどの野生的な目つきではないが、鋭い目になると言うか、生き生きとした目をランランと輝かせている。獲物を捕まえると人間に見せに来る。とてもフレンドリーな猫である。目つきも比較的穏やかである。
 貰われてきた飼い猫は、どちらかと言うと、ポヤンとした目つきで、猫らしさがない。野生的な猫が獲物を捕まえてきた時だけは、その猫に向けて強気な目つきに変わり、彼らが捕獲してきた獲物を横取りする。3匹の猫の中でも最も位が高いと言う態度を見せる。
 犬も、猫と同様に、犬の気持が目つきに表れる。特に、飼い主に忠実な犬は、飼い主を殿様だと思っているから、目で飼い主のご機嫌を伺う場合さえある。猫にはない目つきだ。犬同士の遣り取りは強い者勝ちの世界であり、序列はすぐに決る。強い犬は目つきも鋭く精悍であり、攻撃的である。
 一般的に、馬の目は優しく見えるといわれている。馬に限らず、草食動物の目は、少なくても攻撃的な目ではない。警戒心が強い目つき、怯えた目つき、恐怖に陥った目つきなどの特徴はある。出荷される時の牛は、実に悲しそうな目つきになる。
 自分に危害を加えそうな相手に対しては、警戒心を露わにした目つきで熟視する。一般的に、人間に対しては服従するように調教されている馬が多いから、馬自身が知っている人間に対しては、それほどの警戒心は持たない。目を見たら分るが、実は、馬は、自分の目を見られる事が大嫌いなのだ。
 競走馬の目つきは、厩舎にいる時と、競馬場のコースに出た時とでは、目つきが明らかに異なる。きつい目つきになり、興奮している状態がありありと見える。
 動物の目つきは、草食、肉食、雑食と言う分類でも違ってくるし、それぞれ個体差もあり、人間が予想するその品種の常識からはみ出している動物もいる。
 野生動物か飼育された動物かによっても、目つきは変わってくる。一般論で言えば、野生動物の目つきは、精悍で警戒心が強く油断をしない目つきが多い。飼育された動物の目は、一般的には穏やかで、希に、弛み(たるみ)切った目つきの動物もいる。
4・人間の目つき
 人間の目つきは、その国の生活習慣にも影響されるし、その人の知的レベルにも影響される。感情をストレートに目に露わにする人もいるだろうが、見事に感情を隠す人もいるだろう。どちらの目つきでも、見つめられたら、見つめられた人間は不安になるだろう。
 感情をストレートに目に露わにする人は、その目つきで相手を圧倒したり威圧したりする場合が多い。言葉を伴って感情を露わにされたら、それほどの圧倒感や威圧感はないのだろうが、目だけで感情をストレートに表されたら、圧倒され、威圧される。
 感情を目つきにも言葉にも表さず、隠蔽する人は、顔の表情は平板化する。平板化している顔の目つきには表情がないから、その顔を向けられた相手は、一体どんな気持ちが隠蔽されているのか分らず、不安が強くなる。不安が強くなればなるほど、良くない方に憶測が向かってしまう。
 実際に感情が平板化した一部の人は、相手に殺意さえ抱いている場合もある。意図的に感情を平板化できる人と、知らず知らずに感情が平板化してしまっている人とは、病理性と言う点で違いがある。知らず知らずのうちに感情が平板化している人には、かなり重篤な病理性があるものと考えても良いだろう。
 人間は、相手の感情を読みながら対人関係を継続していく生き物である。目つきだけでなく、言葉も用いて、さらに態度で示しながら、自分の気持ちを出来る限り相手に正確に伝えようとしている。  不登校や引きこもりの子供達の多くは、相手の気持ちを出来る限り正確に理解しようと言う努力を途中で放棄してしまう傾向がある。「相手の気持ちなんか分からない」「本当の気持なのかどうか分らない」等々と言って、確認することをしない。分らなければ、分るようになるまで確認するのが人間としてのコミュニケーションであるが、不登校や引きこもりの子供たちは、途中で確認をしなくなる。憶測や類推で分かったふりをする。
 分った振りをした時の不登校や引きこもりの子供達の目つきには、うろたえた様相が見える。その目つきには不安の色が強くなっている。心の深部にある対人不信が、先入観として突出して来ているからだろう。
 相手の言動をていねいに確認しないことによる勘違い、瞬時に陥る不安による恐れなどによって、怯え、竦み、萎縮する。不登校や引きこもりの子供の目つきが、過敏な小動物のような目つきになるのは、そのような勘違いや不安や恐れなどが強いからである。
 不登校や引きこもりの子供の心は萎縮しているから、緊張緩和が必要である。そのために、彼らに安心できる優しい眼差しが向けられれば、怯えや竦みや萎縮は解放される。
 命令したり支配したり指図するような積極的な姿勢(目つき)は、不登校や引きこもりの子供達の緊張を引き起こす。
 人間の目つきには心が映し出されることを理解して、相手の状態を受容し、理解し、共感できて、分ることを明確に目つきだけでなく、言葉でも表現する。
 自分の言動が受容され、理解され、共感されたら、たいがいの人々は嬉しくなる。快くなって、その先に歩みを進める勇気を獲得できる。うまく行けば、かかわる人間の優しい眼差しが、相手の気持ちに勇気を与えることになる。
 自分の眼差しが優しいかどうかは、自分自身では分からない。相手の様子を観ることで自分の心を鏡で観るようにして、自分の眼差しが相手にどのように受け止められたか理解する。そのことで、自分の眼差しがどのようであったか理解する。場合によれば、私のように相手から、チェリーさんの眼差しは「優しい」「暖かい」と言われなければ自覚できない場合もある。出来れば自己理解のために、常に感情交流を心がけて欲しい。