2014年3月12日水曜日

登文医研たより 953  欠点ばかりを見つける子供(人)

以下の「登文医研たより」は3月12日朝に更新しました。1日、遅れました。ごめんなさい。


登文医研たより 953  欠点ばかりを見つける子供(人)
 登校拒否文化医学研究所 高橋良臣 takahashi@as.email.ne.jp  HPは研究所名か高橋良臣で検索可能  
はじめに以下の文章は理解しやすくするために汎用語を用いる。一部差別用語と勘違しないで欲しい。
 私は、不登校や引きこもりや発達障害の子供たちと生活を共にしている。臨床心理士として、予約した人にカウンセリングもしている。他にも関係する仕事をしている。様々な角度から検討して、心の問題を軽くしたり、悩みを理解したりしようと努力している。
 私なりに受け入れようと努力はしているが、彼らの一部に根強くある、自己否定と他者否定と批判的なこだわりには疲労する。自己否定と他者否定はどちらが良いとか、どちらが悪いというものではない。出来たら、自己も他者も肯定的に受容する方が好ましい。
 相談に来た子供が話す内容には、気になる事がある。それは、かかわってきた子供たちの多くが、自分がどれほど酷い目に遭ってきたかと言う強烈な主張(被害感)と、あわせて周囲にいる人々の欠点や問題点を非常にこと細かく指摘(攻撃)することである。
 そんなに酷い目に遭わせる、あるいは、酷いことを言う人間(友達、教師、親、塾の講師、他)がいるのだろうか? 私の社会観では信じられないような話しが多々出てくる。
 私の高校時代にも酷いことを言う教師はいたが、そう言う教師でも、たまには優しい時もあって、トータルでは、「普通の先生」と言う格付けを勝手にしていた。
 ところが、不登校や引きこもりの子供に言わせれば、かなりの数の友達、多くの教師たち、親、塾の講師らは「絶対的な悪者」になっている。絶対的な悪者とは「良い所は一つもない人」のことである。少しくらいは、良い所もあるはずだが、彼らの視点で、見つけられないらしい。訊けば聴くほど、友達をはじめ親や親たちの欠点や問題点や批判されるべき部分が噴出する。
 確かに世の中には悪人もいるが、それほどの悪意で充満している人がいるのだろうかと疑問に思う。たとえば、現在は、悪者として決め付けられるような人でも、彼らは、たいがい、幼少の頃から、嘘つき、誤魔化し、欺きが同世代の子供たちよりは多かったと言う程度であろう。やがて詐欺師や犯罪者になったのであるから、まだ、どこかに悪者の定義から外れる部分があるのではないか? 考えが甘いだろうか?
 人間には、性善説もあるし、性悪説もある。どんな場合でも、言いようでは、性善にも性悪にもなる。人間が決まりきった型どおりではないことは多くの人々が良く知っているはずだ。私にも、もって生まれた善意と、もって生まれた悪意とがあるだろうと思う。
 私の自己意識では、もって生まれた善意が強いと思いたい(と言う願望がある)。しかし、時に、憎悪や嫌悪や悪意が頭をもたげてくる。かなり醜い思いが自分にもあることに驚く(時もある)。多分、私以外の人々でも、私と似たような感情がある(と思う)。
 不登校や引きこもりの子供たち、加えて、一部の発達障害の子供たちは、生活時間を共有する人、多くは親だが、教師にも憎悪や嫌悪や悪意を抱いている場合がある。不登校や引きこもりや発達障害がある子供たちは、かかわる友達や親や教師らの欠点や問題点などを鋭く過敏に見つけて、時には敵視する。いつも辛口評論家のような態度である。
 そのような視点を持つ子供と一緒に過す時間帯は、親といえども苦痛だろう。親の中でも父親は、仕事で家の外に出てしまうから、子供の辛口批判の実態を知らない。だから、父親の多くは、辛口批判に毎度曝されている母親の苦痛や苦悩は理解しにくい。
 教師も、子供が下校してしまえば、苦痛から解放される。子供からの辛口批判に四六時中曝されているわけではない。友達の場合も、一緒に遊ぶ時間を避ければ直接の苦痛から解放されるかもしれない。しかし、他の子供の前で「あいつはいつもワルばっかりしている」等々の批判をする場合もあり、その情報がもたらされると心穏やかではいられない。
1・一々気になる他者の欠点ばかりを探す子供
 欠点がない人はいない。欠点があるから、欠点や問題点の克服をする。毎日はそのような欠陥だらけの自分のために、修正する日常の繰り返しである。
 不登校や引きこもりの子供達の多くは、自分の欠点や問題点を棚上げして、親や兄弟姉妹の欠点や問題点を見つけることに素早い。時間がたっぷりある彼らには、他者の欠点や問題点ばかりに目が行く。まるで、周囲にいる人々の欠点や問題点を探すために、毎日を過しているかのようである。もっと、生産的なことに勢力を注いだら良さそうなものを、彼らは、批判や否定などと言う、非生産的な思考を変えることはできない。
 日常生活を生産活動や建設的な活動をしながら過している人々には、周囲にいる人々の欠点や問題点ばかりを探している暇はない。たまに、居酒屋で愚痴る時やテレビで評論家の話しを聴く時くらいしか、人々の欠点や問題点に触れる機会は持たないだろう。
 不登校や引きこもりの子供たちは、建設的な役割や生産的な活動が極端に少ない。少なくなる理由は、そのような建設的、生産的な活動が出来なくなり消極的になるからだ。
 不登校になり、学習性無気力状態に陥っているのである。積極的に生産性がある活動をしていないから、生活時間は有り余る。彼らには、家に引きこもって、テレビ、ゲーム、マンガ、パソコンで時間潰しをするしか他に方法はない。滅多に外出はしない。しかし、いつもそのような機械的、器具的、道具的な遊びばかりでは飽きてしまう。
 そこで、目の前にいる母親の言動に難癖をつける。しかも、難癖をつける時には、自分の頭で考えた観念的理想で難癖をつける。頭で考えた観念的理想は、非現実的である。
 観念的な非現実の思考は、日常生活を自分の世界観だけで過している人間には良くありがちなことである。評論家などのほとんども、自分の部屋で理論的な批判を長時間かけて、頭で考え、しかも一人きりで考えている。
 評論家も不登校や引きこもりの子供たちの批判的な態度と似ているが、評論家たちは、自分の評論を社会に公表して、周囲の批判も甘んじて受けている。
 不登校や引きこもりの子供たちは、親や兄弟姉妹からの批判を絶対に許さない。家族が、自分の観念的な理想に反論しようものなら、怒りを家族や物にぶつけて大暴れする場合もある。そのような子供の場合、他者の意見など聴く耳を持たない場合の方が多い。
 現実の社会体験が少なく、現実から学んでいないので、彼らの幼稚(ある意味では純粋)な一面が暴露(露呈)される。もっと豊かな社会体験があれば、世の中には様々な多彩な人々がいることを理解できるだろう。現実は、一つの理想だけでは理解しきれない(賄いきれない)事が分るようになる。人間成長として、社会的な妥協とか、協調性を獲得して成長する。協調は、後天的に社会体験を重ねて、憧れの人から学ぶ傾向がある。一々、細々と相手の欠点や問題点に目くじらを立てるのは、それだけ未熟なのである。
しかも、彼らは、自分の生活の中で、大切な「自分自身が成すべきこと」を無視しているか軽視している。大切な自分自身が成すべきことは、一人ひとりの日常生活の中で具体化する。自分の日常生活を疎かにしていたり、蔑ろにしていたりする人には、「自分自身が成すべきこと」が何かはつかめない。観念的な希望は持っているとは思うが…。
 たとえば、発明をしたい、偉大な人間にたりたい、事業家になりたい、有名になりたい、等々と主張することは出来る。しかし、何を発明したいのか、何に関して偉大になりたいのか、どんな事業家なのか、何で有名になりたいのかは、明確にならず漠然としている。頭だけで考えた世界に埋没していると、たいがいの人も似たようになりがちである。
 キリストは聖書の中で、弟子はその師以上のものではないと主張する。そうは言っても、自分の成長のために師を見出さなければならない。しかし、自分の頭の中での考えだけを師とするような状態は、成長の死(停滞)を招くことになりかねない。この世で師を求めるからには、その師にも欠点や問題点が多々あることを承知の上で師と仰ぐのである。
 そして、いつまでも弟子のままでいたら、師を越えることはできない。師に学び、師以上の努力を積み重ねて、自己成長に結びつけるから、人間は僅かでも進化する。
 私の獣医師の憧れの師は、写真のスライド用のフィルムを写真機に入れる事が出来なかった。私は、フィルムの交換はできた。しかし、その教授の専門分野では、国際的評価は高かった。フランス政府からも、国連の機関からも何かの賞を貰っていた。
 心理の仲間で親しくし、尊敬している人は、料理がまるで出来ず、私はひどい物を食べたことがあった。しかし、専門分野では、十分すぎる貢献をしていた。私は、せいぜい彼よりも上手に料理が出来る程度であった。臨床分野では引けをとらないつもりだが…。
 前記の二人は、専門分野にだけは膨大な時間を費やしていた。私は、いくつかの専門分野に対しては、小刻みに分散して時間を用いている。一つのことだけに多くの時間を割り当てることはできない。それでも、彼らは、私を批判したり否定したり欠点を指摘したりはしない。自分が成すべきことに毎日を費やしていたから、私を批判する時間がなかったか、元々、豊かな人柄だったのだろう。
2・子供が相手の欠点や問題点を見つけることの意味
 相手の欠点や問題点などを、見つけようとする不登校や引きこもりの子供達の多くは、①・相手よりは優位に立ちたいと言う意識がある。相手より優位に立つことで、相手からの批判を受けないように防衛しようとしている。
 この逆転的ともいえる自己防衛については、本人は、自分は自己防衛をしているとは意識していない。たいがい、この場合の自己防衛は、攻撃に見えるからである。
 ②・自己責任逃れのための、相手の欠点や問題点の指摘にも見える。もちろん、当の本人は、自己責任逃れ等とは、全く思い至らない。実際には、攻撃は最大の防御となっていることを、ほとんど自覚していない。
 ③・単純に相手を服従させるために、攻撃的に相手の欠点や問題点を指摘している場合もある。この場合、攻撃する子供には、傲慢な優越感がある。自分が何よりも勝れているような幼稚な優越感や傲慢さである。大人なら一部の政治家や富豪に良く似ている。
 いずれの場合にも、自己の優位性を強調していることは確かだ。優位性を主張する時に、その目的が多少異なる。
 不登校や引きこもりの子供達の多くは、いくら自分の優位性を主張しても、知的レベルも高く、人間性も豊かで、冷静な人から、自分の問題点や欠点を指摘されると、二度とその人の前には姿を見せなくなる。教育相談などで、一部の担当者は、子供の問題点や欠点を指摘して、子供から嫌悪され、回避される。そう言う意味では、臨床心理士や退職校長が教育相談担当になっている場合は、十分に注意して欲しい。
 現実的なことに戻ると、子供が親や教師や友達の問題点や欠点を見つけて指摘することは、自分に向けられる攻撃に対する先制攻撃(先制予防)なのである。
 誰でも自分の問題点や欠点はあるが、恐らく、彼らの場合、外部の人には絶対に悟られないように、秘かに隠している弱みがある。しかし、不登校や引きこもりの子供たちは、自分の弱みに関しては、触れないように回避する。回避していることに、敢えて自ら触れることは自爆するようなものである。誰でも他人には絶対に触れられたくない弱みがある。家族は、子供が抱える地雷(起爆装置)を意識して、問題点や欠点への取り組みが出来ず(触れず)に苦しむ。兄弟姉妹が、問題点や欠点(弱点)に触れることは希にあるが、そんな時には、たいがい本人は何も言わずに、自分の部屋に引きこもってしまう。
 大切な取り組みを回避していると言う自覚があれば、後になってでも、渋々ながら自己修正に取り組めるとは思う。しかし、子供たちには回避していると言う自覚は、ほとんどない(ように思われる)。その状態が続けば、自分の問題点や欠点を抱えたままの(歪んだ)人格を獲得する怖れがある。それが、その人となりの人柄となる。その人柄は、あまりにも社会的に問題や欠陥が多いと、人格障害と言われる場合もあるから要注意だ。
 自らが秘かに隠している子供の問題点や欠点が、人前に曝されてしまったら、子供らは、さらに強烈な不登校や引きこもりをしなければならないだろう。そのようなアプローチは継続カウンセリングにはそぐわない。家族関係の平安にもそぐわない。
 かかわる人間としては、そのような事態(混乱)を是非回避したい。可能な限り、相談は継続できるようにしたいし、家族関係は生き生きと機能できるように修復したい。
 そこで、かかわる者としては、子供が相手を攻撃する事態を、直接的に抑制したり批判したりしないように気をつけなければならない。彼らの言動を抑制したり批判したりすることは、彼らの言動を否定し禁止命令を出すことになる。ほとんどの場合、子供達の反発を受けてしまい、継続的な対話は途切れてしまう。彼らの攻撃に至る心情を理解した上で、攻撃以外のより良い解決方法を見出せるように協力する方が絶対的に良いはずだ。
 子供たちが、社会参加した時に出会った人々や親の欠点や問題点を、目くじらを立てて見つけ、難癖をつける場合には、①・自分が相手よりは優位に立ち自己防衛したいとか、②・責任逃れをしたいとか、③・傲慢になって優越感に浸っていたいと言う願望や事情を理解して欲しい。また、④・何らかの強い不満があることを理解したい。
3・否定的、拒否的な依存
 世の中には、相手に対して、否定や拒否をしながら、その人にかかわって欲しいと、無意識に思っている(願っている)人間がいる。可能な限り、肯定的な表現(関係)の元にかかわっていたいと私は思うのだが、そうではない人もいる。かかわる相手の注意や関心をひきつけるための手段として、問題行動を実行するのは、幼稚すぎる。不登校や引きこもりの子供達の中には、そのような否定的、拒否的な依存をする場合が少なくない。
 彼らが不登校や引きこもりに至る経過の中で、否定的、拒否的な関係や環境や状況が、慢性的に存在していた可能性がある。子供にとっての劣悪すぎる不快な関係や環境や状況では日常生活は混乱するし、それまでは出来ていたことでも出来なくなる。このようになっていくのは、子供に限ったことではない。大人でも同じよう事態に陥る。
 私のかかわった子供たち、親たち、教師たちの中にも、そう言う人々が少なからずいた。たとえば、私が、その子供について肯定的な話をすると「そうは言っても、学校では、教師の指示に従わない子供は、ダメな子供なのです」と言う教師もいた。「その子供は教師の関心を自分に向けたいと思っているのではないですか?」と私が訊くと「それなら、もっと勉強が出来るようになれば良いのです」と教師は言う。この教師の場合、子供の気持を理解しようとはしない人で、教師自身に否定的、拒否的な癖がついている。
 学校では、確かに教師が言うような一面もあるとは思う。が、学業成績が悪い子供にとっては、唐突なパフォーマンスでも実行して、教師の興味や関心を自分に向けたいのである。彼らの多くは、教師から目を向けられない子供たちなのだ。「もっと自分の存在を観て(認めて)ほしい」と願っている子供たちだ。学校にはそう言う子供はたくさんいる。
 それなら、子供の方が、教師が注目してくれるような建設的な努力をすれば良いのだが、彼らは悪態をつきたくなる状態に置かれている。彼らは、過去に建設的な努力をしていたとしても、ことごとく低い評価を与えられ悔しい思いをしてきて挫折した可能性もある。
 そのような状態があって、彼らは否定的、拒否的なアピールに走る。決して良質なアピールとは言えないが、アピールしている自分に関心を向けさせることはできる。それが彼らに出来る精一杯の独善的アピールであろう。屈折していて嫌味でもあるが、本人たちは、屈折とか嫌味と言う情緒的な自己理解はできない。理由は、彼らの感情(心)は健康的な状態を維持しきれなくなっているからである。彼らの多くは、不登校や引きこもりに至る経過で、退行しているからでもある。心が幼児戻りしているから、稚拙な言動をとる。
 思春期は、それまで体験して積み重ねてきた、心の経験が重圧や困難に直面して、崩壊したり散乱したりすることは良くある。そのように不快な出来事に遭遇すると、子供の心は一気に幼児戻り(退行)する。母親に甘えるために「嫌だ、嫌だ」と愚図ったり、乱暴狼藉をしたり、ごねたり、すねたりする。彼らがしていることは先制予防的、逆説的な依存である。子供のそのような状態は、極めて分かりにくい予防であり依存である。
4・長所や利点を認める力
 長所や利点は、人間には必ず備わっている。長所や利点は、観ようによっては、その人の欠点や問題点にもなる可能性がある。その人の視点や価値観によって評価は分かれる。
 高橋は、仕事がのろい→高橋は仕事がていねいである→仕事はていねいではないが確実に出来る、等々の評価は一人の人間が行っている仕事についてのそれぞれの評価である。
 高橋は、仕事がのろいから締め切り時間に関して言えば、頼りにならないなら、明らかに欠点となる。しかし、締め切り時間の枠を除けば、利点や長所も見られるのである。基本的な枠はなければ困るが些細な枠は取り払ったら良いのではないか?
 子供達の言動を評価する場合、減点主義か加点主義かで評価は分かれる。子供の言動に関しては、是非、加点主義で評価して欲しい。出来ないことを見つけるよりは、出来ることを見つけるという評価の方法である。
 周囲の影響力がある人々の評価の方法が、加点主義なら、子供の場合も加点主義に習う。減点主義だけだと、子供も減点主義で、自己評価を低くして、しまいには挫折する。
 大人の役割は、子供達が希望に燃えて、積極的に、失敗を恐れずに物事に取り組めるような意欲を育てることである。それなら、加点主義の評価で、子供の気持を支えなければならない。是非、子供の存在そのものを認め、子供の気持を軽やかにして欲しい。
 注意しなければならない事がある。実際に日常生活に支障があるほどの障害のある人は、その障害に応じて、加点評価が必要である。それだけではなく、さらに、彼らの存在の大きさ、重さを理解していなければならない。
 これは、我々の側のあらゆる人間に向けての質に関する理解の問題になる。下手をすると人種差別に繋がるし、人間に対する優劣の愚かな判断に繋がる。歴史を振り返れば、過去にそのような愚かな事態が多数起っていたことを深く反省しなければならない。
 役立たずはいない。人間のクズもいない。根っからの悪者もいないと思いたい。しかし、何らかの事情(関係、環境、状態など)で、反社会、非社会、脱社会状態に陥る人がいる。その事情の解釈を見直して、肯定的な理解をし、子供が、より良質な社会が参加できるように努力できるように支援する。我々にできる支援はそれほど多くはない。
 人間には、能力も機能も個人的な差異がある。その差異を小さくするために、多くの便利グッズが出来てきた。その便利グッズさえも遣い方に差異が生じるから、混乱している人々に寄り添い、支援を出来る人間が理解し努力して、協力に備えていたい。
 どんな人間でも、挫折や諦めや混迷は起こる。そのような時に、その人に寄り添う人間がいれば、挫折や諦めや混迷から抜け出せる。
 寄り添う価値がない人はいない。全ての人が相互に寄り添いながら、生き合っていく。否定的、拒否的な依存をする人にも、寄り添い人が必要である。