2014年4月18日金曜日

登文医研たより 955  不登校や引きこもる時の子供の気持。

以下の「登文医研たより」は4月18日に更新しました。
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はじめに以下の文章は理解しやすくするために汎用語を用いる。一部差別用語と勘違しないで欲しい。
 国際的にみたら、日本では、古くから、長年の教育制度によって、多くの恩恵を受けてきている。文化的な恵みも経済的な豊かさも高い教育に依存する部分もある(例外はいつでもあるが…)。発達した交通網や流通や十分すぎる物資など、ある程度は、学校教育と、教育研究機関の業績として認めても良いだろう。
 教育機関は、多くの人材を育ててきた。もちろん、歴史的に寺院や私塾や家庭での教育も、大いに人材教育には貢献してきた。
忌まわしい歴史だが、過去には軍隊も大きな教育機関のひとつだった。
太平洋戦争後、経済成長に依存してきた日本社会では、教育に関してのほとんどは、学校教育に依存する傾向が強くなってきた。そのようになってきた背景として、本来の家庭教育をする人間は、勤労者として労働に勤しみ(いそしみ)、家庭内での教育は必要最小限の教育しか出来なくなってきた。勤務先でしばしばみられる企業内の人事の序列は、かなり学歴に支配されていた時期が長かった。現在も学歴を重視する企業は少なくない。
親は、子供の教育については、学校やそれにつながる教育機関に、もっぱら期待する傾向が強くなってきた。さらに、私塾に学校教育の不足を期待して、高学歴を目指す親が、圧倒的に多くなった。そのために家庭教育の時間は極めて減少した。家庭は、寛ぎと癒しと慰めを実践する場となった。
ここでいう家庭教育とは、主に社会参加するための精神的な拠り所となる、家族間の信頼関係である。将来の自立に向けて頑張って努力する精神と、行き詰った時には必要な依存をしても良いという、唯一の家族関係のことである。
家族が不在の場合、寛ぎも癒しも慰めも、家庭ではIT機器に依存する傾向が強くなる。ゲーム機器が進化して、子供たちの多くは、家庭に親たちが不在でも、一人遊びができるようになった。そのことは、子供の対人関係の不器用さを助長することになってしまった。本来的には、遊び友達関係から、信頼しあえる友達関係の獲得へと対人関係は進展していくはずだが、現代社会では、対物関係、対機械関係の進展や依存が強くなってきた。ゲームなしではいられない、IT機器なしではいられない状態が起こっている。
子供が自立に向けての努力をするためには、家族間での言葉の交流がなければならない。言葉の交流とは、感情交流である。それは家族同士が、気持ちを相互理解することである。
子供が家族に必要な依存ができるとしたら、子供自身が行き詰った気持ちを安心して家族に訴えることができなければならない。黙っていたら、いくら家族同士であっても、子供の苦悩は分からない。しかし、現実的には、家庭には親は不在がちとなる傾向がある。
引きこもりになる人々の多くは、家族にさえも、自分の気持ちを語ることは少ない。何も語らずに自室に引きこもる子供が多い。恐らく、心が混乱して、まとまった内容を語ることもできなくなっているのだろう。家族としては、「あの子は、何も言わないから、あの子の身に何があったのか分からない」と呟くしかない。そのまま、数年間も、家族との会話を失ってしまう場合も少なくない。
学校教育での不測の事態、社会参加してからの思わぬ出来事に遭遇すること、対人関係での躓き等々は、時には、一人で乗り切ることが困難な場合もある。そんな時には、信頼している親しい仲間に相談して、難局を乗り越えなければならない。または、拠り所となる家族に打ち明けて、自分の困難を乗り越えなければならない。
信頼している友に打ち明けて、気持ちを軽くするか、家族に打ち明けて、少しでも心の負担から免れるかしなければ、その後の反応は予断を許さないものになっていく。
1・学業成績依存環境も引きこもりの一因である。
 「はじめに」の項でも述べたが、子育ての大きな要因は学校教育に依存する傾向が強くなってきた。並行して親たちが行ってきた家庭教育は希薄になってきた。家庭教育をする社会的環境や家庭内関係や経済的状況が崩れてきたからである。
親自身が仕事中心の生活になってきた。あるいは、経済中心の生活になってきた。
その上、親子ともども高学歴志向性が強くなってきた。子供も、親たちのその様な高学歴志向欲を知っている。やがて子供は自らの意志で、高学歴を目指そうとする。高学歴競争とか進学競争に走る子供は多い。子供同士でも「あの子は勝ち組で、自分は負け組」と言った言い方までする時代になった。
 子供は自分の学業成績が良くなければ、高学歴志向性が崩壊することを(子供自身も)十分に理解している。何らかの理由で、ひとたび学業成績や順位が落ちると、その子供は多くの場面で前進を停滞させてしまう傾向がある。絶望する直前の希望の崩壊である。
進学を目指して競争してきたのに、その競争(競技)から離脱してしまう。つまり、勉強を一切しなくなり、ゲーム三昧の生活に陥ってしまう。
 一般社会でも、「勉強ができる子は、すべての面において良い子」であるかのような誤解がある。何が良いこの基準かと言うと、学業成績や順位である。
 人間の善良さは、学業成績や順位とは無関係である。道徳の成績が良かったから善良な子供であるかのような誤解をしてしまうのが、世間一般の人々である。
 世間一般の常識は、子供もなんとなく耳にして知っている。したがって、学業で思うような成績を取れなかった子供は、恥をかきたくないとか、悪者だと思われたくないと言う理由で、人前に自分の姿を見せなくなる。彼らの多くは、自宅に引きこもりがちになる。
 知識について、学校に依存するのは必然的な依存だと思う。たいがいの人々は学校教育の積み重ねで、高学歴に到達し、豊かな知識を得る。最近では、パソコンで、あるいは、ネットで学ぶ機会も増えてきた。しかし、ネットだけだと、対人関係から学ぶ機会は逃してしまう。学校教育の優れているところは、そこには複数の人々がいることである。
 実際のところ、学校教育で、子供の対人関係の進展に配慮してくれている教育者がどれほどいるだろうか? 教育者の大多数は、子供の学業成績を上昇させること、進学で、世間的な評価が高い学校への進学をさせることに終始しているのではないか? 
そのこと自体は、特別に悪いことではないが、偏った人間形成をしてしまう子供も生まれるのではないかと、私は危惧している。
 ゲームにしても、ネットにしても、健全な対人関係を獲得する上では、それほど役に立つものではない。ゲームもネットも、むしろ、対人関係の必要性を蔑ろにする道具になりかねない。対人関係による精神成長を軽視することになる。ゲームやネットに膨大な時間を割り当ててきた人々は、現実の社会においては、対人関係が苦手になる。
 ゲームやネットに依存しすぎている子供たちの多くは、学業成績が降下する傾向が起こる。そうなると、彼らも、引きこもりがちになる。ゲームやネット依存している子供たちでも、学業成績が落ちることは「恥」であることくらいは認識している。今日の社会的環境ででは、学業成績が落ちることは、怠け者としての証明になりかねない。
 世間でいうレッテル張りはこのようにして行われてしまう。ひとたび、落ちこぼれとか怠け者と言うレッテルを張られた子供の失望感は、大きな精神的なダメージを受ける。彼らが抑うつ的になり、引きこもってしまう気持ちはよくわかる。
 同様に高校野球で甲子園に行くと言って頑張ってきた子供が、野球を断念せざるを得なくなった場合にも同様の失望感や絶望感を体験しているに違いない。
2、引きこもりの根源は人間不信にもある。
 引きこもる子供たちの多くは、対人関係が希薄であると言われている。引きこもっていない子供たちは、対人関係が濃厚かと言うと、同様に対人関係については希薄である。子供たちの社会全体が、対人関係希薄状態に陥っている。その背景にはIT依存社会がある。子供同士が言葉を交わさない社会が横たわっている。
 ゲーム、ネット、マンガ、テレビで一人遊びをする子供たちは、誰とも言葉を交わさない生活をしてしまう。対人関係で親密感を抱こうとすれば、相手から好かれるような気が利いた言葉を使わなければならない。しかし、ゲームもネットもマンガもテレビも子供が気を使わなくても、長時間のかかわりができる。ある子供は「自分の親友はゲームだ」と嘯く(うそぶく)。信じられない話だが、その様にいう引きこもりの子供たちは多い。
 多くの子供たちは「ゲームやネットたちは、自分を裏切らない」とか「好きな時に好きなだけ使える」と言う。彼らが、同学年の子供たちから、いじめられ、裏切られ、騙されてきた様子をうかがわせる言葉である。あるいは、教師や親たちから、ひどい目に遭わされてきたことをうかがわせる言葉である。その様な嫌悪するべき出来事に遭遇して、子供たちの心には、強い人間不信が芽生えたものと考えられる。
 H.S.サリヴァンも言うように、対人関係で嫌な思いをした場合、機械的、器具的、道具的な遊びに依存する(高橋の意味的解釈)ようになる。
 機械的、器具的、道具的な遊びなら、引きこもり孤立した生活の中でこそ(そういう生活の中だから)、十分に取り組むことができる遊びである。
 彼らの多くは「人間嫌い」であると言うが、引きこもる前までの生活を親たちから訊くと、決して人間嫌いではないようだ。むしろ、もともとは人間が好きで、何の警戒もせずに危険人物に接近して、彼ら危険人物の言動で痛手を負ってしまったのが現実らしい。
迂闊に危険人物に接近して、手ひどい目に遭って、それ以来、人間不信、人間嫌いになってしまったというのが本当の所である。
 その様なひどい目に遭った子供の場合、他の人々も同様に危険人物に見えてしまう場合も多くなるだろう。ひどい目に遭った子供が、十分すぎる警戒心と用心深さをもって、安心できる人間を求めている様子は、彼らの日常生活からも理解できる。
 たとえば、学校で親友だと思っていた子供の裏切りに遭遇した子供は、同世代の子供のほとんどを拒否する傾向がある。教師からひどい目に遭った子供なら、「教師」とか「先生」と呼ばれる人のほとんどを拒否するだろう。病院の医師からひどいことを言われた子供は、医師と呼ばれる人や病院と名の付く所のほとんどを拒否する傾向がある。
 時間が余って退屈で困っているのに学校に行かないとか、病院に行かないとか、友達とも会わないという事実は、前記のような出来事に遭遇しているからだろう。
 引きこもりの人々の気持ちには、根強い人間不信がある。その人間不信を改善する必要がある。しかし、彼らの多くは、外に出て人と会うことはしないわけだから、まずは、家族関係での信頼回復からはじめてほし。それから、メンタルフレンドや家庭教師や親戚の者や常日頃から家に出入りしている人々とのかかわりを実現すれば良い。
 文字で書くとこのようになるが、簡単にことは運ばないだろう。最初にかかわる親としては、引きこもりの子供には、その引きこもりが、その子供にとって必要な引きこもりだったことを認める寛容さがなければならない。
 必要な引きこもり?と、疑問に思う人が多いかもしれない。人間には自分の人間性(正当性)を維持するために必要な防衛機能がある。引きこもりも、その必要な防衛機能の一つであると理解してほしい。
 引きこもっている人々からは、「これ以上、自分を人間不信に駆り立てないでほしい」と言う叫びが聞こえてきそうである。したがって、親たちにしても、ただひたすら「出てこい」ではいけない。彼らが抱いている人間不信について具体的に理解してほしい。単純に善とか悪で区別しないでほしい。損とか得で説得しないでほしい。彼らの心の奥底にある、人間不信の改善に、優しくかかわってほしい。
3、自己評価が低い子供。
 不登校になる子供の多くは、自己評価が低い。一般的に、良くできていても「これくらいできて当たり前」だと思い込んでいる。「これくらいできないでどうする」と言う低い自己評価もしてしまう。「自分なんか、いつも平均以下だ」と思い込んでいる節がある。
 私の個人的な見解だが、今日までにかかわってきた不登校の子供たちは、かなり出来が良かった。しかし、自分の学業成績が良いと自己評価する子供は全くいなかった。
それまでの習い事にしても、私としては、本気で「上手だね」と言っても、彼らのほとんどは「自分は下手」だと主張する。ピアノやギターにしても、とても上手に演奏するにもかかわらず、自己評価は極めて低い。もしかしたら、リチャード・クレイダーマンと比較しているの? クロード・チアリと比較しているの? と訊きたくなる。
 彼らの目標が高すぎるのかもしれない。私も陸上競技で短距離走をしていたが、目指すところは、せいぜいその学校での良い記録であって、高校新記録とか、日本新記録とか、世界新記録では、絶対にありえなかった。仮に、日本新記録を基準にしたら、いくら周囲から「高橋は足が速い」と言われても「全然、駄目だよ…」と言うしかないだろう。その様に言ってしまうと、自分でも気分が落ち込む。「確かに、今日は、良い記録が出た」と確信できれば、その後の気持ちは高揚するし、気分も良いものとなる。
 私が出会ってきた不登校の子供たちの多くは、気分的にうつ状態の子供が多かった。その上、自己評価も低く、自己否定的な状態でいたら、気分も滅入ってしまうだろう。
彼らのほとんどは、自分の取り組みに全力を出し尽くしていた。その上で、自己評価を低くせざるを得ない結果が出たら、気分は低迷するに違いない。
 多くの場合、希望や目標の設定にミスがある。小学生にハーバード大学の受験をしなさいと説得するようなものである。哲学的にも間違った命題の設定である。「高橋の脚の長さはなぜ110cmあるか?」と同じくらいの設問ミスである。設問自体に問題はあるが、答えるとしたら、計測する位置を間違えたからと言う、くだらない答えしか出てこない。
 不登校や引きこもりの子供たちの低い自己評価は、彼らが自ら作った課題や目標の設定ミスに由来している。その様な人々との比較は、もっと後からすれば良い。たとえば、プロのプレイヤー(演奏者)になってから目指せば良いのである。
 不登校をしていた子供で、プロゴルファーになった子供がいる。中学生の頃の彼の目標は、ジャンボ尾崎であった。高校1年生の時に「僕は、本当にへたくそだ。プロを目指すのは、もうやめようと思う」と言ってきた。「今からジャンボ尾崎と比べる必要はない。比べるとしたら、賞金を稼げるようになってからにしたらどうだい?」と言ったことがある。彼は、その後、プロテストに合格して、現在もプロゴルファーとして活躍している。
 女子の中には、自分の容姿容貌に関して、猛烈に低い自己評価をする子供がいる。「こんな顔(本人は目が小さいと思い込んでいた)では外出もできない」「こんなスタイル(本人は胴長短足だと思い込んでいた)では恥ずかくして町を歩けない」等々と言う女子がいた。
 いくら「人間の価値は、顔や形で決まるものではないよ」と言っても聞き入れない。目も鼻も口も脚も胴も、特別におかしい所はどこもない。彼女が目指していたのは、ファッションモデルであり女優であった。私は「あなたが、将来、女優やファッションモデルになろうと決心した時から、スタイルや顔に気を付けたらよいと思う。それまでは、自分らしく生きることの方が大切だよ」と言った。彼女は「チェリーさんはそんな顔で町を歩いていて、恥ずかしくないの?」と私に質問した女子である。その時私は、「私は私だから、私のままで良いのだッ! 余計な心配しないでくれッ!」と思わず言ってしまった。これも彼女の設問のミスから出てきた問題である。
 設問するとしたら「将来はどんな人間になりたいの?」「将来はどんな体型になりたいの?」と言う設問なら、「今よりは生き生きした表情ができるようになりたい」とか「ファッションモデルのようなスタイルになりたい」と言う目標につなげることは可能だろう。
4、自分ができることに希望を抱く。
 不登校の子供たちの希望や理想は高いことが分かっていただけたと思う。それは彼らの多くが観念的な理想に走る傾向があることを示している。
設問ミスとしては、高橋がキリストのようになりたいという問題がある。ありえない観念的理想である(高橋は絶対に人間であり救い主にはなれないことは十分に理解している)。「高橋は、できるだけ人と出会って快い生活を送りたい」なら現実的な希望となる。確かに仕事で出歩く先が多方面にわたっているから、その気になれば実現可能だろう。
「高橋は貧乏だから、これから金儲けをしなければならない」と言う設定には無理がある。理由は、もともと、金儲けをしようと言う意思がない人は、金儲けの手段もわからないし、金儲けをしなければならないという義務感もない。
多くの人々には、自分にできることとできないことの境界を理解している(と思われる)。自分の身の程を現実の社会生活から学んできている。現実の社会生活とは、その人が生活してきた範囲(領域とか分野など)のことであり、身の程のことは、その現実の社会生活から、体験的に経験して、自分自身に取り込んでいる。
高橋は、獣医師だし牧師だし臨床心理士だから、その領域の仕事はできるだろうということになる。高橋は華道や舞踊の家元の仕事をしなさいと言われたり、政治家になりなさいと言われたり、貿易商になりなさい等と言われたりしたら「ムリ、ムリ」絶叫するしかない。誰でも、自分にできる可能性があることには取り組める。その可能性をどこまで、広げるかは、その人の興味や関心の高さ、好奇心の強さに影響されている。
不登校や引きこもりの子供たちの多くは、失敗や間違いや人々からの批判などを恐れて、自分にできる可能性も委縮させている。失敗はやり直せばよい、間違いは訂正すればよい、人からの批判には応じて、改善していけば良いと言う、前向きの姿勢が抜けている。
自分が獲得している基盤をもとに、そこから、先に進化させようという気概が必要である。ところが、不登校の子供たちには、自分が獲得している基盤に関しても、それが揺るぎないものであるという確信を持てないでいる。
不安が強すぎるのである。今までに学んできたことや体験して、経験を積み重ねてきたことも、まるで、身についていないかのようである。

このような不安や自信のなさは、周囲にいる人々や家族が明確に支えていかなければ、不登校や引きこもりの子供たちは、不安定なままに、ものごとの取り組みにも、消極的になってしまう。獲得してきた、学んだことについて「あなたは確実にそのことができる」と言う保証を、寄り添う人がしなければ、自信が持てない状態に陥っている(それが不登校である)。我々が不登校や引きこもりの子供たちの身近にいるとしたら、彼らの不信や不安や自信喪失の補正のためであると自覚していたい。寄り添うという現実がいつも必要である。そうしなければ、彼らは自分にできることもわからなくなってしまう。